学生である自分に安心感を抱くのはもうやめた

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こんにちは。橋本ゼミ7期生の井月です。

突然ですが「学生」という肩書で社会人と対等に向き合うために何が必要か、皆さんは考えたことがありますか?

優秀な成績を収めることが必要か?
サークル活動やボランティアへの参加など、豊富な経験が大事なのか?
他人と緊張せずに会話をすることができればいいのか?

例えばですが、私には中学時代や高校時代の経験で人に自慢したいことが沢山あります。自分が過去に行ったことや言動、特に部活動での経験は自信を持って話すことができます。

しかし、それらの話で大切なのは「学生であること」という前提であり、実際の出来事への評価ではないということを踏まえなければいけないと感じたのです。

そこで、現在「学生」として携わっている地域活性化プロジェクトを通して考えた、「学生」という肩書について記事を書いていこうと思います。

学生であることは有効である

まず初めに、私が携わっている地域活性化プロジェクトがどういったものなのか、簡単に紹介していきます。このプロジェクトは大学が位置する神奈川県伊勢原市で取り組まれているもので、駅前を中心とした商店街の衰退や、少子高齢化の進行による後継者不足など様々な問題を抱えているのが現状です。そこで、これらの問題を改善していくためのプランを策定することが決定し、そのために必要な活動や準備に、橋本ゼミの一部メンバーが先生と共に関わっています。その中で私が行ってきた活動は、市民への立ち聞き調査と商店街の経営者たちを交えた検討会への参加の2つになります。

そして、今回は「学生」に着目して記事を書かせていただきますが、この2つの活動に参加したことによって「学生」という肩書が常に同じように機能するわけではないということを知るのです。

まず、立ち聞き調査での機能ですが、市民を対象に行うものなので大学名を名乗ることから調査が始まります。調査終了時に大体の方にお声掛けいただいたのが「学生さんなのに偉いね。」「学生さんなんだよね。頑張ってね。」といった内容です。この場合は「学生」という肩書が有効に機能し、人々から応援される立場を構築することが出来ているのではないかと思われます。

では検討会ではどのような機能を果たしたのか。ここに関して、特に中心的に意見を述べていきたいのが今回の記事の狙いでもあります。こちらは次章に詳しく書いていきたいと思います。

存在価値を自分の力で作り上げる

検討会では市役所の方、プロジェクトに携わる企業の方、商店街の経営者の方々を交えて会議を行っていきます。ここに「学生」が参加できるということは滅多にない素晴らしい経験ですし、この空気や雰囲気、緊張感を味わえるかどうかで今後の活動への関わり方が変わってくるのではないかというくらい、学生にとっては検討会への参加が活動における要になってくるのではないかと思います。

私は一度参加をしましたが、「学生」が大人たちと同等な立場では見られていないということを感じました。ここにいるのは全員同じプロジェクトに携わっている人たちなのに不思議ですよね?これは決して大人たちが悪いとか、そういった主張をしたいわけではありません。これは、ただ単に「4年生の授業に1年生が見学に来ている」というような状況で物事が進行している状態のように思われたのです。

もちろん、学生全員が大人たちと同等な立場で見られていないかというとそうではありません。この緊張感漂う中で意見を述べた学生は、私よりも認められた存在価値を見出すことができていますし、その学生もまた、私よりもレベルの高いところで課題を発見したり、意識の改善が出来たりしているのではないかと思います。

それに比べて、私は何もできてないに等しい状態でした。グループワークでは大人たちの意見交換を聞くだけで精一杯、重要なことを必死にメモに残すことで精一杯という具合です。これでは私に対して期待はできないし、先ほど例えた「見学に来た1年生」の扱いしか受けることができません。「見学に来た1年生」に対して事細かに4年生が気を配ることはなかなか無いですよね。

そこで私は、ここで学生に求められているのは「如何に学生という前提を無視して大人と同じステージに踏み込めるか」ということだと考えたのです。これは根本的なマナーやルール、条件を無視するということではなく、学生という殻をこの場で破れるかどうかというところがポイントです。結果的に大人と同じ立場を構築することは難しいですが、少しでも自分に対する見方を変えることが出来たり、意見を求められるようになったり、そのきっかけを「学生」という立場を利用して作り上げることが重要なのです。

最後に

「学生」というのは一時的にその人に付属されるただの肩書であり、人や状況によって見られ方は変わってきます。プロジェクトへの参加をきっかけに、見られ方の差に気づくことが出来ましたが、個人的にそのような差を突き付けられる状況に、ある種の面白さを感じました。

「学生」でありがちなのが、褒められた場合に「自分は学生なのに大人と同じように成功させることができた。」というような肩書の使い方と、怒られた場合に「自分は学生だから助かった。大人だときっと許されていないだろう。」というような肩書の使い方が1つの例として挙げられると思います。

これが何を意味するのかというと、どちらの場合も「学生」という肩書の中でしか自分の能力の可能性を広げることができない。つまり、肩書を逃げ道として利用してしまっているということではないでしょうか。

現在、私自身が「学生」であるからこそ言いたいのです。

人から頂いた評価が自身の能力の評価とイコールではないということを。「実力の勘違いをしてしまっているかもしれない」と気づくことが重要だと。

これは私の場合ですが、外部環境を気に掛けるよりも、例えば同学年の仲間を意識した方が自分の実力を伸ばすことができると考えました。私よりも成績の悪い人が高い評価を貰っていたり、頻繁に欠席する人がリーダーシップを発揮していたりすれば悔しさしか無いですし、二度と負けたくないと心の底から勝手に思うのです。

あくまでも同じ環境に頑張っている仲間がいるという場合の話ですが、私自身に潜在的に備わっている負けず嫌いという名の原動力。これにどう火付けしていくかが私にとってのカギになるでしょう。

これまでの私の主張が1人でも多くの学生に良い刺激を与えてくれたらいいなと思っています。正直、それがどこの誰なのかを知る由も無いのですが、私はめげずに「実力を高める」という大人への挑戦を続けていきます。

これが、私が「学生」だからこそ出来る第三者への訴えであり宣言なのです。

執筆:橋本ゼミ7期生 井月真由

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この記事を書いた人
橋本ゼミ生

産業能率大学情報マネジメント学部橋本ゼミに所属するゼミ生です。

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