現実に抗うための服と、現実に抗うために学ぶこと

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小学生位の頃の話。

クラスメイトに服装がとてもおしゃれな女の子がいた。特に接点がある訳ではないので、自分の中では「おしゃれな人」という印象しかなかった。

ある時、「ここが〇〇さんの家だよ」と教えてもらった。

外観だけでいえば、おしゃれさは全くなかった。むしろ逆。とても古く、寂れた感じの家だった。「なんだかギャップがあるものだな」と思ったが、今となると色々と考えることがある。

おそらく、その子の家は裕福ではなかったのだ。しかし、その現実に抗うために、自分の理想を表現するために、おしゃれな服装を選んでいたのだと思う。きっと、おしゃれが似合う容姿になる努力もしていた。

子供が家を変えるのは難しい(大人でも簡単ではない)。だからこそ、変えられる所を変えていたのだなと思う。僕は素敵なことだなと思った。だからこそ、家を見てしまったことへの後悔のようなものがあった。本人が見せたいものだけを見るだけで良いのではないかと思うのだ。

オンライン授業が始まり、カメラオン・オフの話が出たとき、僕は背景に映る情報が気になった。今でこそ、バーチャル背景とかぼかしとかの精度が上がったが、開始直後は混乱の中にあったと思う。静粛な環境を用意できない人もいる。教員なんて立場には、学生が見せたいものだけを見せればいいと思う。大学生であれば服装ならなんとかなる。それで良いんじゃないかと思っていた

ともすれば、裕福な家ではないのだから、おしゃれなんかするなよ、という声もあったかもしれない。しかし、そんな声には断固「うるせえ」と言いたい。生まれる家なんて選べないんだからこそ、本人の希望を実現できることは素晴らしいと思うのだ。自分が着たい服を着れば良いんだと思う。

「学ぶこと」にも近しい所があるのではないかと思う。
ある学生は、内定先から「学生時代は、たくさん遊んでおいたほうが良い」と言われたという。こういった発言は多くあるが、かなり文脈に依存するためその意味は多様だ。この学生の場合には、(会社に入ると、とにかく忙しいし、気合と根性が重要だから)勉強とかせずに、遊べるうちに遊んでおいた方が良いという意味であった。

その学生は、「たしかにそういった会社だと思うし、自分はそういう会社でしか(現時点では)働けないと思うけど、学ぶ意味もないんですかね?」と言った。もちろん、そんなことはないよ、と伝えた。ただし、意味があったのか、なかったのかは、その時点では自分にもわからなかった(自信が持てなかった)。その学生は、とても面白い卒論を書いて卒業していった。

自分は、現状に抗う意味での学びもあってもいいと思っている。やる意味なんてないと言われていたとしても、またその意見に客観的な説得力を感じてしまったとしても、自分が学びたいことを学んでいいと思っている。どの場所からも、どの年齢からも、どんな環境にあったとしても、学ぶことができるのは、ひとつの希望だと思っている。そこから何が変わるかなんてわからないのだから。

さて、終わりに、その後のことを述べておこう。
おしゃれな女の子は、その後本当におしゃれな人になったようだ。もちろん、おしゃれな家に住んでいる(らしい)。仕事もプライベートもうまく言っているらしいよという噂を聞いた。僕とは全く人生は交差しなかったため、「らしい」でしかないが、素敵な人生を歩んでいってほしいなと思っている。

学ぶ意味を問うた学生は、転職を決めた。今度は、本人の知的な個性が求められる先だ。卒論が役にやったかどうかはわからないが、「卒論を書いていたことが役に立ったと思います」という社交辞令を僕に言えるようになるまで成長している。

現実に抗うための服があり、現実に抗うための学びもあるのだなと、今は思う。そして、それが実際に現実を変える力を持つこともあるのだなと、今は思う。

なお、個人が特定されないようにかなり装飾を加えています。

オンラインとリアルと同時に行うハイフレックス型の授業を終えました。噂にきく、誰も来ないのでは?と思った教室には常時100名近い人が。
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この記事を書いた人

産業能率大学情報マネジメント学部 准教授 橋本諭(はしもと さとし)。
研究テーマは、ソーシャルビジネス、人材育成を扱っています。

橋本 諭

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